館林中央ライオンズクラブ

333-D地区 1R 2Z (群馬県 1975年6月 姉妹提携)

友好のたぬき像

 海岸線から遠く離れた館林中央LC(群馬県)が、姉妹クラブの相手先として海沿いのクラブを求めている、との話が紹介者を通じて旭LCに持ち込まれたのは1975年の春のころ。

 館林市は狸で知られた「分福茶釜」の茂林寺と、見事に咲き誇る「つつじが岡公園」で有名なところ。

九十九里浜に面した当クラブとの縁組みは山と海とが引き合うかのようにトントン拍子に進み、同年6月に目出度く姉妹提携の調印式が行われた。

 以来、お互いの持ち味を活かした交流が積極的に行われ、親睦を目的とした例会相互訪問も30年以上に亘り続けられるなど、333複合地区に所属する両クラブの姉妹関係は益々盛んとなっている。

           友好のたぬき像

茅野ライオンズクラブ

334-E地区 1R 1Z (長野県 1980年3月 姉妹提携)

 旭市と長野県茅野市が姉妹都市となって間もなく、茅野LCメンバーが市議会議長の立場で旭市を公務訪問した折り、当クラブに対して両市のライオンズクラブも姉妹提携してお互いの絆を更に強めてはとの申し入れを行ってきた。

 当クラブとしても茅野LCの意向に諸手を挙げて賛同し、1980年3月姉妹提携の契りを結んだ。

 以来、姉妹都市と姉妹クラブの両輪は大きな成果を上げながら回り続けている。

 毎年の例会相互訪問は当然のこととして、寅年と申年に行われる天下の大祭「御柱祭」には毎回レディ同伴での招待がアリ、天下に誇れる茅野市の御柱祭の興奮を堪能し楽しさも遠慮無く頂戴している。

 

     諏訪大社御柱祭(木落とし)

木曽ライオンズクラブ

334-E地区 3R 3Z (長野県 1986年3月より友好クラブ)

 木曽LCの所在地長野県木曽町と旭市とは次のような歴史上のつながりが有る。

 朝日将軍木曾義仲公を先祖に持つ戦国武将木曽義昌公は天正18(1590)年徳川家康が関八州に所替えとなった折り、家康の命により父祖以来の木曽谷から下総の国海上郡阿知戸(網戸-現在の旭市イ)一万石の城主としてこの地に移された。

 義昌公は城下町づくりや新田開発などに尽力し領民に威を振るうことなく仁を以て臨み善政を施したことから網戸村は大いに繁栄したといわれている。

 しかし、在任僅か5年後の文禄4(1595)年義昌公はその波乱に満ちた生涯を閉じ、近くの「椿の海」に水葬された。

 領民は、その徳を偲び義昌公を網戸興隆の祖と仰ぎ毎年3月17日の命日には追善供養を怠ることなく続けている。

 嘉永5(1852)年義昌公250回忌にこの地を訪れた京都の国学者で歌人の野々口隆正が「信濃より いづる旭をしたい来て 東のくににあととどめけむ」と詠んでいる。

 明治22(1889)年町制施行にあたり義昌公の先祖義仲公が、勢いの象徴 朝日(=旭)将軍であることから、この和歌の「旭」をとり町の発展を祈念して「旭町」と名付けた由来で有る。

 このような歴史とロマンで結ばれた木曽LCと旭LCは、友好クラブとなって5年に一度の周年行事毎の交流を続けている。

野々口隆正の和歌(東漸寺蔵)